登入結局、その日は伯爵家へすぐには戻れなかった。 襲撃のあった場所から王都までは、通常ならそう遠くない。だが、道を塞いでいた荷車の処理や、怪我をした護衛の搬送、周囲へまだ敵が潜んでいないかの確認に時間がかかった。何より、セドリックが「このまま伯爵家へ返すわけにはいかない」と低く言い切った時、誰もそれを真正面からは覆せなかった。 伯爵家の馬車は側面を損じていたし、護衛の一人は肩を負傷していた。エマは青ざめたまま主人の傍を離れず、御者もまだ動揺を引きずっている。そういう状況を見せられれば、たとえ腹が立っていても、すぐに「結構です」とは言えなかった。 だからリリアーナは、いったんヴァレンティア侯爵邸へ運び込まれることになった。 それが決まった瞬間、胸の奥に別の種類の冷えが走った。 また、ここへ来るの。 前世の記憶が、場所と結びついているからだろう。侯爵邸の門をくぐる前から、呼吸がほんの少し浅くなる。石造りの外壁、整いすぎた庭、黒鉄の門、どこもかしこも昔と同じだ。馬車の窓から見える景色だけで、心臓が身体の奥へ少し沈む。 だが今回は、前世と違っていた。 馬車が門をくぐるより早く、玄関前には既に人が出ていた。ローレンスだけではない。侯爵家付きの老医師と、女医に近い役割を担う年嵩の侍女、それに下働きの娘が二人。湯の入った盆、包帯、薬箱、毛布。まるで最初から「誰かが傷ついて戻る」と分かっていたかのような支度の速さに、リリアーナはまた胸の奥をざわつかせた。 偶然とは思えない。 思いたくても、もう無理だ。 自分だけが前世を抱えているのではない。 あの男も、知っている。 そう気づいたあとの世界は、同じ景色でも少し違って見えた。侯爵邸の玄関ホールに満ちる蜜蝋の匂いも、磨き抜かれた床へ落ちる夕方の白い光も、すべてが“あの人もこれを知っている”という前提で迫ってくる。「こちらへ」 ローレンスが静かに促す。 セドリックはリリアーナのすぐ隣を歩いていた。触れてはいない。だが、もし足元が揺れれば即座に支えられる位置を一歩も外さない。その距離感が、今は前にも増してはっきりと意味を持つ。 彼は知っている。 前世の終わりに、自分がどこで、どう倒れたのか。 どんな血の匂いがして、どんなふうに冷えていったのか。 そして、自分の腕の中から失われたのが何だったのか
黒の上着には土と泥がはね、袖口には薄く何かが擦れた跡がある。呼吸は乱れていない。蒼灰色の瞳だけが異様に鋭く、そしてこちらを捉えた瞬間に、張りつめていた何かが一段落ちたのが分かった。「怪我は」 「……ない、わ」 「立てるか」 「ええ」 立てる、の言葉と同時に彼の手が伸びる。 強い。 迷いがない。 だが乱暴ではない。 その手に引き上げられた瞬間、馬車の外の景色が見えた。 荷車は横倒しになり、伯爵家の護衛の一人が肩を押さえてうずくまっている。地面には二人の男が伏せていた。顔は布で覆われ、服もありふれた荷運び人のものだ。だが腰の位置には短剣。単なる賊ではない。訓練を受けた動きだったと、一目で分かる。 そしてもう一つ。 荷車の下から引きずり出された男の手首に、薄い革紐が巻かれている。 その結び方に、リリアーナは見覚えがあった。 前世の終わり近く、一度だけ見た。 侯爵家の裏で動く連中が好んで使う、識別用の癖のある結び方。 偶然でなければ、あまりに嫌な符合だった。「移動する」 セドリックが短く言う。「ここに留まるな」 「待って」 「何だ」 「……どうして、そこまで分かったの」 問いは、ほとんど反射だった。 彼は一瞬だけ、こちらを見た。 その目に走った揺れは短かったが、見逃せない。「何のことだ」 「右に弓がいるって」 「……」 「荷車の下に二人いるって」 「……」 「まるで、最初から知っていたみたいだった」 エマがまだ馬車の中で震えている。 護衛たちは周囲を固めている。 こんな場で問い詰めるべきではないと頭では分かる。 だが、今の今まで冷えていた血が、別の意味でざわめいて止まらない。 セドリックは答えなかった。 答えないまま、リリアーナの腕を掴む手だけを少し強めた。「後で話す」 「今よ」 「今は違う」 その低さに、前世の彼を思い出しかける。 だが、違う。 昔なら、そこで終わりだった。 今の彼は、終わらせるために言っていない。 ただ、本当に今は場が違うのだと押し切ろうとしている。 それが分かることすら、余計に腹立たしい。「侯爵様!」 伯爵家の護衛が呼ぶ。 道の先で、別の馬の音が近づいてきていた。 味方か、遅れてきた追手か。判別する暇はない。 セ
御者台のほうで、不意に馬のいななきが聞こえた。 甲高く、短く、驚いた時の声だった。 続いて馬車がわずかに斜めへ揺れる。車輪が石を踏み外したような大きな揺れではない。けれど、普通の道の段差ではない種類の、急な揺れ。 リリアーナは咄嗟に窓の外を見た。 道の脇に、荷車が一台、妙な角度で止まっている。 本来ならすれ違う側へ寄るべきなのに、まるで道を塞ぐような位置だ。車輪の一つが外れたようにも見えたが、その不自然さに気づいたのは一瞬遅かった。「止まるな!」 外から、護衛の一人の怒声。 その直後、何か硬いものが馬車の側面へぶつかった。 鈍い音。 板が軋む。 馬が再び大きく鳴き、御者が手綱を引く気配。 エマが短く息を呑んだ。「お嬢様!」 次の瞬間、馬車が止まった。 止まらざるをえなかったのだと、すぐに分かった。前方だけではない。窓の向こう、反対側にも人影が見えたからだ。荷運び人のような粗末な外套。だがその立ち方が違う。腰が低く、間合いを詰める準備をしている。偶然道を塞いだ者ではない。 襲撃。 その言葉が、遅れて脳裏に上がる。 前世では、こんなに早くではなかった。 心臓がどくりと打つ。 息が浅くなる。 体は一瞬、凍る。 けれど次の一拍で、前世の記憶が逆に身体を動かした。 怖い、と思う暇より先に、まず何をすべきかが分かってしまう。「エマ、床に伏せて」 「でも」 「早く!」 エマをほとんど押すようにして、馬車の座席の下へ身を低くさせる。自分もスカートの裾を乱しながら床へ膝をついた。窓から見える位置に頭を上げていてはいけない。これだけは、もう身に染みている。 外ではすでに金属のぶつかる音がした。 短剣か、護身用の剣か。 悲鳴ではなく、男たちの低い怒声。 そして、ひときわ異質な音。 空気を裂くような、高い風切り音。 リリアーナの背中が総毛立つ。 弓だ。 しかも狙いは馬車そのものではない。護衛を散らすための牽制。「前より、早い……」 思わず口から零れた。 エマが「お嬢様?」と震え声で呼ぶが、答えられない。 前世ではもっと後だった。 しかも、やり口が少し違う。 あの時はもっと粗く、もっと混乱の中へ押し込むような襲撃だった。 今のこれは、手際がいい。 荷車で道を塞ぎ、射手
王都を離れる日取りが、ようやく現実の輪郭を持ちはじめた頃だった。 アデル叔母のもとへ向かう準備は、ひとつずつ、けれど確かに進んでいた。父は「静養は一月」と念を押し、継母は露骨に不満を隠さないまま、それでも表向き必要な手配だけは整えさせた。王都から西の丘陵地までの行程。途中で泊まる宿。必要最低限の衣類と書物。薬草院へ持っていくための礼と、母方の家へ送る事前の荷。 夢ではない。 逃避でもない。 それはもう、具体的な移動の話になっていた。 だからこそ、伯爵家の中は妙に落ち着かなかった。 父は平静を装っているが、書斎にこもる時間が増えた。継母は茶会の予定をいくつか詰め込み、娘が王都を離れる前にせめて「伯爵家の令嬢として恥ずかしくない姿」を周囲へ見せておきたいらしい。マリアンヌは姉へ何を言えばいいのか分からないのか、以前より静かにこちらを見つめるようになった。 そしてセドリックは、相変わらず止まらない。 花は前ほど頻繁ではなくなったが、その代わり、必要そうなものが増えた。旅向きの手袋。雨に強い靴底へ張り替えをすすめる職人の名。西へ向かう馬車の車輪に適した金具を扱う工房の一覧。露骨ではない。けれど一つ一つが、彼がこちらの出立を、もはや想像ではなく現実として扱っている証のようだった。 行くなとは言わない。 だが、行くための条件にまで手を伸ばしてくる。 それが不気味で、腹立たしくて、そして少しだけ、以前ほど完全には拒めない自分がいることにも、リリアーナは苛立っていた。 そんな中で、今日は王都郊外の教会附属の慈善庫へ顔を出す予定があった。 伯爵家から薬草院へ運ぶ予定の乾燥布や保存瓶のうち、幾つかを安く分けてもらえるという話があり、エマが「今のうちに見ておいたほうが」と勧めたのだ。継母は「どうせ静養へ行くのなら、その準備くらい自分で見なさい」と皮肉交じりに言ったが、それでも許しは出た。父も特に反対しなかった。むしろ、娘が静養に本気で向かっていることを示す行動として、伯爵家の体面上も悪くないと判断したのかもしれない。 だからその日、リリアーナは珍しく王都の外縁に近い場所まで出ることになった。 供は多くなかった。 表向きは慈善庫への買い出しに近い用事だ。大げさな護衛をつければ、かえって目立つ。御者と下男一人、侍女としてエマ、それに伯爵家の護衛が二名。近郊
「今の私は、そういう不器用な引き止め方をされても戻れないわ」 「……分かっている」 「分かってないから来たんでしょう」 「……」 「安全を並べれば説得できると思ったなら、それは管理よ」 「思ってはいない」 「じゃあ何」 「……理由を探していた」 その返答に、今度はリリアーナのほうが黙った。「理由?」 「行くなとだけ言えば、君は余計に離れる」 「そうでしょうね」 「だから、別の形で止められないか考えた」 低い声。 正直で、ひどく不器用だ。 それを聞いて、また少しだけ笑いそうになる。 本当に、この人は侯爵であるくせに、こういうところだけ驚くほど不器用だ。「それで、道が悪いから?」 「……」 「医師が少ないから?」 「……実際にそうだ」 「分かってるわ」 リリアーナは眉を寄せた。「分かってる。だから余計に腹が立つの」 「どうして」 「本当のことを言わないくせに、嘘じゃない理屈だけはきっちり並べるから」 それが、この人のずるさだ。 完全な嘘はつかない。 でも、本当に言うべきことからはずれる。 だから責めきれない。 責めきれないから余計に苦しい。「行くなって言えばいい。 離れてほしくないって言えばいい。 私を見えるところに置いておきたいって、そう言えばいい」 「……」 「そうじゃないと、私はまた、あなたが何を考えているのか分からないまま、条件だけ与えられる」 前世みたいに。 その言葉は飲み込んだ。 言わなくても、きっと彼には伝わった。 セドリックの目が、深く沈む。 今にも何かを言いそうで、でもまだ足りない。 この人の中で、言葉はいつも肝心な一歩手前で重くなる。 長い沈黙のあと、彼はようやく言った。「……離れてほしくない」 「……」 「手の届かないところへ行かれるのが、嫌だ」 その声音は低く、整っていた。 叫びではない。 懇願でもない。 でも、たぶん今の彼にできる最大限の本音だった。 リリアーナはしばらく返事ができなかった。 それを聞きたかったのかと問われれば、単純にはうなずけない。 だが少なくとも、条件の羅列よりはずっと胸に届く。 届いてしまう。 それが悔しい。「……それでも行くわ」 やっとそれだけ言うと、セドリックは目を伏せ
言ってしまってから、部屋の空気が少しだけきつく張った。 暖炉の火が小さく鳴る。 窓の外で枝が風に擦れる。 それだけが妙に大きく聞こえた。 セドリックは一歩も動かなかった。 だが、その沈黙の中で、彼の喉が小さく上下する。「……言えば、聞くのか」 「いいえ」 リリアーナは即答した。 それが余計に可笑しくて、そして切ない。 彼は言えない。 自分は聞かない。 それなのに、今こうして同じ部屋で、まるで答えがどこかにあるみたいな顔をして向き合っている。「でも、少なくとも分かるわ」 「何が」 「あなたが何を思っているのか」 その一言で、彼の目がはっきりと細くなった。 怒りではない。 むしろ、見抜かれた人間の一瞬の防御反応に近い。 リリアーナはそこで初めて椅子へ座った。 腰を下ろすと、少しだけ体が冷えていることに気づく。 両手を膝の上へ置き、指先を組んだ。「今のあなたは、条件ばかり並べる」 「実際に条件の話をしている」 「ええ。でも、欲しいのはそれじゃないの」 「……」 「私が欲しいのは、管理じゃない」 はっきり言う。 そこを曖昧にしたら、また同じになる気がした。「道がどうとか、護衛がどうとか、医師がどうとか」 「必要なことだ」 「必要でしょうね。でも、それで私が残ると思っているなら、やっぱりあなたは分かっていないわ」 セドリックは返さない。 返せないのかもしれない。「私は、安全な場所へ置かれたいわけじゃない」 「……」 「あなたの目の届く範囲に収められたいわけでもない」 「……」 「欲しいのは、そういう管理された安心じゃないの」 自分でも、その言葉がどこから来るのか少し分からなかった。 前世の記憶。 謝罪。 眩暈の夜。 全部が混ざっているのだろう。「王都の近くの別荘なんて、きっと静かで、暖かくて、医師も呼べて、何不自由ないのでしょうね」 「そうだ」 「でもそれは、私のためじゃない」 「違う」 「違わないわ」 そこでようやく、リリアーナは小さく笑ってしまった。 愉快だからではない。 あまりに不器用で、あまりに本音を言わないからだ。「あなた、自分でも分かっているでしょう」 「何を」 「私を手の届くところへ置いておきたいだけだって」 セド
部屋へ戻ってから、リリアーナは窓際に立ち尽くしていた。 外では風が少し強くなってきて、庭の若木が枝先を揺らしている。白い洗濯布がはためく音が、遠くで乾いた鳥の羽音と重なった。日差しは明るいのに、胸の中は晴れない。むしろ、時間が近づくほど息苦しさが増していく。 侯爵本人が来るかもしれない。 その事実が、想像以上に彼女を乱していた。 会いたくない。見たくない。声を聞いたら、きっと前世の記憶が一気に押し寄せる。 けれど、会わなければ何も分からない気もした。彼が本当に前世と同じなのか、それとも違うのか。最後に見た涙が、ただの死に際の錯覚ではなかったのか。 なぜ知りたいのだろう。 知っ
焼きたてのはずなのに、味がしない。むしろ、喉が拒む。飲み込むたびに胸が詰まる。 父は新聞を畳み、ようやく本題へ移った。「本日、ヴァレンティア侯爵家から使者が来る。調印前の最終確認だ。侯爵ご本人が同行される可能性もある」 「ご本人が?」 声が掠れた。 前世ではどうだっただろう。思い出す。たしか、使者だけだった。セドリック本人は調印の日まで現れなかったはずだ。あの人は最初から、この婚姻に個人的な熱意など持っていなかった。だからこそ、それが普通だった。 なのに、今回は違うかもしれない? なぜ。「ええ、そう伺っておりますわ。侯爵様はお忙しい方ですのに、ありがたいことですこと」 「本
最初に戻ってきたのは、痛みではなく、冷たさだった。 骨の奥へ、針のように細く、しかし容赦なく差し込んでくる冬の冷たさ。肌の表面ではなく、血の流れそのものが凍っていくような冷えだった。指先はとうに感覚を失っていたはずなのに、なぜか唇だけがひどく寒かった。息を吸おうとしても胸がひしゃげたように動かず、喉の奥では鉄の味がした。鼻先を掠めていくのは、夜気に濡れた石畳の匂いと、花壇の土の湿った匂いと、そして、濃く、温かく、気持ちが悪いほど甘い、自分の血の匂い。 ああ、死ぬのだ。 その時のリリアーナは、驚くほど静かにそう思っていた。 怖くないわけではなかった。怖いに決まっている。まだ二十九だっ
リリアーナ・エヴェルシア年齢:20歳スタート身分:エヴェルシア伯爵家長女外見:蜂蜜色の長い金髪、柔らかな翡翠色の瞳。白い肌に華奢な体つき。儚げな美貌だが、目の奥には芯の強さが宿る。淡いピンクや生成りのドレスがよく似合う。性格:穏やかで礼儀正しいが、ただ耐えるだけの女性ではない。追い詰められるほど静かに覚悟を固めるタイプ。人の悪意にも鈍くはなく、見て見ぬふりをしてきただけ。長所:忍耐力、気配り、家政と帳簿の管理能力、薬草知識、社交の場での観察眼など。短所:一度情をかけた相手を簡単には切れない。自分の痛みを後回しにしやすい。セドリック・ヴァレンティア侯爵年齢:27歳スタート身分







